デリーで二週間の療養

  

Max Super Speciality Hospitalで治療を受けた私はしかしすぐに胃腸が完治したわけではなく、他の都市に移動できるようになるまでになんと二週間もかかってしまったのでした。

今回はデリーのホテル「R.S.インターナショナル」に引き籠もっていた二週間の様子を書いていきたいと思います。

療養生活の日々

まず、ものが食べられませんでした。食べられたのはバナナだけ。なので午前中に起きた私は、ホテルから近く、車いっぱいにバナナを積んだバナナ売りのおじいさんのところに行って、バナナを2本買って食べるのが日課になりました。それから水を買ってホテルに帰るのです。

夕方にもバナナを買いにいきました。しばらくのあいだ食事はこれだけでした。あとは水をたくさん飲みました。

医者には水を一日4リットル飲むように言われてました。だが実際4リットルというのは暑いインドにいてもなかなか飲めませんでした。それでも2リットル以上は飲んでたと思います。

食事は本当にこれだけ。この旅行の最後にベトナムのホーチミンを再訪した時、前回出会った人に再会したのですが、すごい痩せたと驚かれました。それはデリーでのこの二週間のせいだと思います。

バナナと水のほかにたまに炭酸飲料も飲みました。お腹に悪いかなと思いつつもデリーは暑いので時々飲んでしまうのでした。よく飲んだのが「Thums Up」というインド版コーラのようなものです。あと「Limca」というレモネードのようなスプライトのようなのも美味しかったです。

旅に出るとコーラが飲みたくなると旅先で耳にしましたが、これは本当に同意で、日本ではコーラをはじめとした炭酸飲料なんて全く飲まないのに、旅先では妙に飲みたくなるのでした。

これは驚いたことですが、インドの店ではほとんどで飲料が冷やされていません。冷蔵庫に入っているのですが、電気が入っていないのか弱いのか、冷えてません。しかしたまに冷えた冷蔵庫を使っている店があって、ホテルの近くにそれを見つけた私はよくその店に行ってThums Upを買ってました。

療養生活の間あまり町歩きはしませんでした。歩くとしたらバナナを買いに行ったついでに少し歩く程度で、足を伸ばしてもせいぜいメイン・バザールくらいまででした。

そのメイン・バザールから近く、ニューデリー駅の正面あたりにチャイ屋があって、よくそこでミルクティーを飲みました。インドといえばチャイで、とても甘く美味しかったです。狭い店でしたが繁盛していて、よくインド人たちと肩を並べて座って飲んだものです。

ニューデリー駅前ということもあって、大きな荷物を持った旅人が通りを行き交い、それを眺めながらチャイを飲んだのを思い出します。

その店でパンを頼んでいる人もいて、その場でパンを切ってバターを塗ったりして出されたそれはとても美味しそうでした。お腹も悪かったし言葉も通じなかったので頼んだことはありませんでしたが、一度くらい頼んでみてもよかったかなと今では思います。

メインバザールです。よく散歩しました。

私のホテル「R.S.インターナショナル」の前の通りは道幅は同じくらいでしたが、車の通りはずっと多かったです。

インドの車ははっきり言って危険です。例えば中国は日本と違って車優先社会なので、日本と同じ感覚でいると危ないですが、それでも歩行者がいれば避けてくれます。バイクのすさまじく多いベトナムでも同様に歩行者を避けてくれます。しかしインドでは歩行者はお構いなしと言った感じで突っ込んできます。歩いていてミラーが腕に当たったこともありました。こんなこと日本では経験ないことです。

またインド人は無駄にクラクションを鳴らします。通りの端からずっと向こうの端までクラクションを鳴らし続けている車もありました。体が弱っている私にはそれがすこぶる神経にこたえるのでした。

野良牛です。

ホテル前の通りをのそのそ歩いてました。噂には聞いてましたが、実際にはじめて見た時はびっくりしてまじまじ見てしまいました。インドでは何度も野良牛を見たのでじきに見慣れてきましたが、それでも出会った時はいつも物珍しくじろじろ見てしまいます。

光っているのがホテル「R.S.インターナショナル」。昼の写真も撮っておけばよかったのですが、夜のしかありませんでした。この療養生活の期間の写真はほとんどありません。写真を撮る気分ではなかったのでしょう。

ここはホテルの前の路地なのですが、バナナを食べに行く際、写真にあるような車の影によく人が一人か二人うずくまっているのを見かけました。何をやっているのかとちらと見やると、なんと注射を打っているのです。私はぎょっとして目をそらし足早に行き過ぎました。彼らはほとんど毎日そこにいました。からまれたりしないかと不安でしたが、幸い無事でした。見た感じ彼らは注射を打つことに一生懸命のようでした。前回このホテルの近辺は治安が悪いと言ったのはこのことです。特に女性とかはこの近辺は危ないので近寄らない方がいいでしょう。

想像を超えたことがしょっちゅう起こります。日本の常識が通じません。それもこれもまだまだ序の口で、旅は始まったばかり。インドでは道を歩けば未知にぶつかる、です。

 

療養生活の後半

一週間過ぎた頃になるとバナナ以外にも野菜スープが飲めるようになりました。私のホテル近くに小洒落た店があって、そこで野菜スープだけを頼んでよく飲みました。近隣の店と比較して割と綺麗な店で、野菜スープの値段は忘れてしまいましたが、周辺の屋台などよりはずっと高かったと思います。ホテルの一階に併設された小さな店で、客も小綺麗なのが多く、旅行者風の客もたまに見かけました。

ある時、いつものように野菜スープを飲んでいると、隣にいた黒人の二人の男に話しかけられました。彼らは飛行機の乗り継ぎでデリーを訪れたとのことで、次の飛行機までの時間を待っているとのことでした。せっかくインドに来たんだから1日くらい泊まっていったらいいのにと私は思ったものでした。

ここニューデリーでは西洋人をほとんど見かけません。タイやベトナム、カンボジアでは旅行者を大勢見かけたものですが、それと比べても全然少ないです。カオサンロードやブイビエン通り、パブストリートのような西洋人だらけの場所も見かけません。私が訪れた6月はオフシーズンで毎日40度以上という酷暑のせいかなと思いましたが、それにしても少ない。やはりインドではお酒が飲める場所が少ないということも影響してるのかなと思いました。

インドでは一般的な店でお酒はまず置いてなく、酒を売っている店を探すのは旅行者には難しいです。私のホテルからニューデリー駅に向かう途中に酒を売る店がありましたが、それもかのホテル「R.S.インターナショナル」に宿をとらなければ見つけられなかったでしょう。私はインドではお酒は飲まないつもりで来たので買わなかったですが、その店はいつも大勢の人で大繁盛してました。ヒンドゥー教の関係でおおっぴらにお酒を飲めない雰囲気が社会的にある感じでしたが、やはりお酒が好きな人は多いのでしょう。

 

コンノートプレイス

療養生活後半になってくると食パンやハンバーガー、ピザなどが食べられるようになりました。油っこいインド料理はまだ無理でしたが、日本で食べ慣れた西洋的なものは食べれるようになりました。ホテル近くのまた別の店でモーニングセットを食べたりしてましたが、ニューデリー駅周辺には西洋風な店は少ないのでやがて隣町のコンノートプレイスまでくりだすようになりました。

コンノートプレイスは前回の記事でも書きましたが小綺麗な店が多く、飲食店から服飾店、映画館まであるとても発展した町です。

こんな感じで、ニューデリー駅周辺とは違ってお洒落な町です。ニューデリー駅から歩いて15分くらいでしょうか。大通りを毎日てくてく歩いたのを今でも覚えています。

ここにケンタッキー、subwey、ドミノピザなどがあり、よく食べに来ました。インドの物価からしたら贅沢な食事でしたが仕方がありません。味は普通に美味しかったです。

コンノートプレイスといえば町歩きもよくしましたが、ある経緯からツアーデスクに行ったこともありました。私のホテル前の通りを歩いている時にあるインド人のおじさんに英語で声をかけられ、そのツアーデスクを紹介されたのでした。大分ご飯が食べられるようになってきて、療養生活も終盤であるのを意識していた私はいよいよ次の都市への移動を考えていました。そのおじさんといろいろ話して、ツアーデスクはコンノートプレイスにあるというので一度行ってみようかと思ったのでした。その場でおじさんはオートリクシャーをつかまえてくれて、運転手に行先を伝えてくれました。

コンノートプレイスのそのツアーデスクでは30代前半くらいのパリッとした男が対応してくれました。世間話からはじめて、お腹壊して病院行って大変だったよという話をすると、彼はデリーはいまは暑くてそれで食べ物が悪くなるから、それでお腹を壊すんだ、だからデリーはすぐ離れた方がいいと言いました。デリーに住んでるインド人がそんなことを言うのはなにか可笑しかったです。

その彼にインドは何処に行きたいのかと聞かれたので、私はアーグラーとバラナシには行きたいと告げました。すると彼はカジュラーホーに是非行った方がいいと言ってきました。私は聞いたことのない名前だったので「?」という顔をしていると、彼は地図でその場所を教えてくれて写真を見せてくれました。とても美しいから絶対行くべきだと強く薦めるので、じゃあ行ってみようかなと言うと、彼はツアー日程を紙に書いて料金を計算しだしました。アーグラーからカジュラーホー、そしてバラナシへ行き、ニューデリーに戻る日程です。出された金額は忘れてしまいましたが、ゼロの多い見慣れない金額に私ははじめピンとこなかったのですが、しかし徐々に頭が回り始めてその金額の高さに気づき、あっけにとられてしまいました。

ツアーでは日程と時間が決まっていて自由がききません。自分の好きなように動きたいからこれまで一人で旅行してきた私です。今更そんなツアーに参加するわけにはいきません。一人旅が不安な人には何もかも決めてくれるツアーは楽でいいでしょうが、私には逆に不自由で不都合です。ツアーコンダクターのような人間と一緒に動かなければならないというのもストレスです。そもそも一人で移動して安いホテルに泊まり安い食事で済ませれば何十分の一の値段で旅行できます。そんなこんなに思いを巡らせた私は急に馬鹿馬鹿しくなって、そのツアーデスクを去りました。

ただ此処に来てよかったのはカジュラーホーのことを聞けたことです。実際にこのあとカジュラーホーを訪れてとてもよかったので、巡り合わせの不思議というか、ツアーデスクに行った偶然に感慨深いものを感じるのです。

 

綱渡りの少女

ある日「R.S.インターナショナル」からニューデリー駅に向かう途中の道、酒場の近くで綱渡りをする少女がいました。

頭に壺をのせて綱渡りしてます。すごい雑技です。これを見て感嘆しながら、またこれができるようになるまでさぞ苦しい訓練をしたのだろうということやおそらく生活は貧しいであろうことなどを考えてました。

インド人の貧困は街中でよく目にしましたが、日本などと比べてそれはそれは過酷で峻烈で厳しいものでした。とくに忘れられないのがニューデリー駅近くの橋架下の家族でした。持ち物は布団と少々の荷物だけで、その汚れようもひどいしハエもたかっているのでした。その窮状は見るも凄まじいものがありました。そしてその家族がとくに印象的だったのは、その中の少女がデリーでは滅多に見ないほどの美少女だったからです。いつも散歩の際には彼女を見て、綺麗な服を着て身体を洗ったらさぞ美しいだろうと思いました。生まれたのがここではなければこうではなかったであろうと物哀しく思われるのでした。

 

インドから日本に電話

インド旅行のあとはロシアで、そのあとヨーロッパに行く予定で、そのつもりで航空券を買ってましたが、この療養生活の時点でヨーロッパを旅行する予算はないということが判明してました。それでヨーロッパに行く代わりに旅慣れて日本から近く、旅費が安くて済む中国を旅行しようと考えてました。なのでロシア・モスクワ発イギリス・ロンドン行きの航空券を中国行きに変えたかったのですが、そのためには航空券を買った会社「エクスペディア」に直接電話で頼まなければならないのでした。

インドから日本にかける方法をネットで調べてみると、町中にある「ISD」という電話屋で国際電話をかけることができるということでした。それでニューデリー駅周辺を歩いてみると、わりとすんなりメインバザールにその店を見つけることができました。

ISDの看板はメインバザールの中ほど、南側によく見えるところにありましたが、店はそこから路地を入った奥まったところにありました。店に入り電話番のおやじに国際電話をかけたい旨伝えると、おやじはそこにある電話を指差しました。

とりあえずかけてみようと、エクスペディアのサイトにあったとおりの電話番号にかけてみると、無事につながりました。久しぶりの日本語に安心します。航空券の番号を伝えて事情を話すと、問題なく行き先を変更してくれました。イギリス行きよりも中国行きの方が安いので、何ヶ月後に多少お金が返金されるとのことでした。

つつがなく電話を終えると、レシートがジーと出てきました。そこに電話料金が記されており、それをおやじに払うのでした。料金は忘れましたが、予想以上に安かったのは覚えてます。エクスペディアに電話できなければイギリス行きの航空券は捨て、新たに中国行きのを買わなければならなかったわけで、そんな無駄をせずに済んだことにほっとしました。

 

R.S.インターナショナルの思い出

このホテルは綺麗ではありませんでしたが、値段は安く、最低限のものは揃っており、二週間の療養に足るものがありました。

ホテルに泊まるようになってからも、ホテル代はネットのアゴダというサイトを通して払ってました。というのは、一度カウンターに支払いに行ったら、アゴダで二日分予約して払うよりも高い金額を提示されたからです。それで私は直接払うのはやめてアゴダで払うようになりました。その後でカウンターの強面の黒ひげ男に支払い確定の映ったスマホの画面を見せるのです。その男はいつもカウンターにいて、毎回スマホを見せると「OK」と頷くのでした。愛想のない男でしたが、といって意地の悪さや性格の悪さといったものはその男からはとくに感じませんでした。客にとくに愛想も振りまかない、無骨で、もしかしたらクールとも言えるかもしれないその黒ひげには、私はむしろいい印象を持っていました。

「R.S.インターナショナル」の従業員は若い男ばかりばかりで女性は見ませんでした。彼らは制服みたいなものは着ておらず、私服で仕事をしてました。私が彼らに頼むのはタオルの交換くらいなものでした。二週間もホテルに滞在していると彼らとも打ち解けた雰囲気になりました。たいした話などはしませんでしたが。彼らからしたら、二週間も滞在してほとんど部屋から出ない私は奇妙だったかもしれません。

「R.S.インターナショナル」には忘れられない思い出があります。あれは一度デリーを離れ、インド各地を回ってから再びデリーに戻ってきていた時の話です。その頃はインドでは雨季に入りかかっていた時期らしく、ある日の夕方散歩からの帰り道に大雨に降られてしまいました。私は例の貧しい家族のいる架橋下でしばし雨宿りすることにしました。雨はまるでたらいをひっくり返したような凄まじい勢いです。多くのインド人たちとそこで雨宿りしてましたが、雨はますます強まり、やがて道路は冠水してきました。一向に止まない雨に痺れを切らした私は諦めて雨の中ホテルまで濡れて帰ることにしました。

土砂降りのなか苦労してホテルにたどり着くと、その軒下には3~4人の従業員が所在なげにこの大雨を眺めていましたが、彼らはそこに帰ってきたずぶ濡れの私を見て大笑いしました。私は”ひどい目にあった”という顔をして苦笑いしましたが、大笑いする彼らにつられて私自身可笑しくなってしまいました。この時のことが彼らとの楽しい思い出として今でも心に残っています。

思えば日本人宿からインド人宿に移ってきた理由の一つにインド人と交流したいという思いがあったわけですが、その希みがかなったということからして「R.S.インターナショナル」に来てよかったと思うのでした。

 

療養生活と本

二週間の療養生活では一日のほとんどを部屋で寝転がって過ごしたわけですが、その間電子書籍を含む本を読みまくってました。実際、旅行に持ってきて一番よかったと思うのはこの電子書籍でありKindle PaperWhiteです。これがなかったら私の療養生活は死ぬほど退屈なものになっていたでしょう。ここでは私の読んだ本を簡単に紹介してみます。

 

『深夜特急』 沢木耕太郎

いわずと知れたバックパッカーのバイブル。以前大沢たかおが主演したドラマを見ていましたが、それが面白かったのでいつかは読みたいと思っていました。

面白いのは香港編ですが、インド編で主人公が病気になるくだりはやはり共感とともに印象的でした。療養生活を送りながら、私も主人公と同じようなことになってしまったなと感慨深く思ったものでした。

 

『ブッダのことば:スッタニパータ』

タイをはじめとした仏教国を巡る予定だったので、その国々を理解するためにも読んでおこうと思いました。荷物を増やしたくないのでできる限り電子書籍がよかったのですが、残念ながらこの本は電子書籍化されてなかったので岩波文庫を持参しました。

本の内容は訳者がたしか解説していたように素朴な内容でした。印象的な言葉がいくつかありましたが、ここにひとつ断片を紹介しておきましょう。療養生活の中で、またインドの旅の全過程で私が寄り添った断片です。

寒さと暑さと

飢えと渇えと

風と太陽の熱と虻と蛇と

これらすべてのものに

うち勝って

犀の角のようにただ独り歩め

 

『罪と罰』 ドストエフスキー

この本は私にとって青春のバイブルです。19歳のときに読んで以来、私の精神形成に大きな影響を与えました。一番はじめに読んだ時はラスコーリニコフとソーニャの物語に感動したのですが、その後歳を重ね経験を積むにしたがってラスコーリニコフの実存に関心を持つというように読み方が変わってきました。

通しで読むのは今回で三回目でしたが、読み始めたのは旅行に出る前年の5月頃で、途中まで読んでそのままになっていました。読み始めたきっかけはその頃あるつらい別れがあって、なにか頼るものがほしかったからです。その頃いろいろなものを見たり聞いたりしてすがりうるものを求めていましたが、結局唯一頼れるものはこの『罪と罰』なのでした。

このとき読んで知ったのは、この作品に出てくる主要人物はみなどんづまりにぶつかった場所にいてどこにも行くことができないということでした。そのような限界的な場所に置かれているなかでひとりラスコーリニコフはその壁をあえて踏み越えます。それによって物語が動き出すのです。彼らへの共感をとおして、私自身の辛さも和らぐように感じられました。

電子書籍ではこの『罪と罰』の米川正夫訳が青空文庫に出てたので旅行前に無料でダウンロードしておきました。ドストエフスキーの訳のなかではこの米川訳が一番好きで、なんといっても文章が格調高い。古い訳ゆえに古めかしい文章もありますが、それがむしろ趣深い。とりわけ『罪と罰』のクライマックス、最も情熱的でドラマチックな場面のくだりはまさに名訳で、この箇所だけのために米川訳を推したくなるくらいです。

 

『聖書』

西洋文化に対する聖書の影響はいうまでもなくはかりしれないものがあります。だからいつかは読んでおきたいとずっと思っていました。今回の旅行の計画の段階ではヨーロッパに行く予定でしたのでなおさらそうでした。この療養生活によってはからずもその念願がはたされました。

聖書は電子書籍化されていて、旧約聖書と新約聖書が一冊になって日本聖書協会から100円という格安で出されています。しかもそれぞれ口語訳と文語訳が含まれているので実質四冊分のボリュームです。私は文語訳の方が格調高くて好きだったので読んでましたが、所々分からない箇所は口語訳を参照していました。

この二週間の療養生活で旧約聖書は読破し、新約聖書も大部分は読み終えました。簡単に感想を言えば、旧約聖書の方が物語性があって面白かったです。ただ新約聖書はヨハネの黙示録が素晴らしいと思いました。

 

 

療養生活の終焉

一時はインド最終日まで療養が続くかもしれないという危惧がありましたが、幸い二週間で体調もほぼ改善しました。二週間はたしかに長かったですが、それでも最終日までまだあと二週間あります。そのとき思ったことは時間を無駄に過ごしてしまったということではなく、あらかじめ1ヶ月という長い期間をインド旅行に設定しておいてよかったということでした。そうでなければ、療養だけでインド旅行は終わってしまっていたことでしょう。それではインドに対する印象も悪いものにしかならなかったにちがいありません。いよいよデリーを離れて他の土地を旅することができる。そのときの私はわくわくしていました。

以上がデリーにおける療養生活でした。この期間に起きた出来事は瑣末なものまで記録しておきましたが、それというのもこのときのことは間違いなく稀有な出来事であるし、私にとって忘れたくない記憶だからです。療養していたその当時は、あのR.S.インターナショナルの薄暗い部屋に象徴されるような憂鬱を感じざるをえませんでしたが、すべてが過ぎ去ったあとから振り返ってみると、あの期間に起きたことどもが無性に懐かしく思われるのです。

記憶というものは繋がっているもので、ある別のなんの変哲もないような瑣末な記憶から芋づる式に、或る大切な記憶が当然電光のように脳裏に浮かび上がることがあります。そういうわけで今回の記事では取るに足らないような瑣末な出来事も私自身の記録のためになるべく書き残しておきました。あの療養生活の期間に見たこと感じたことをできるだけ覚えておきたいと思うのです。

さて、次回はいよいよデリーを離れアーグラーという町に移動します。あの有名なタージ・マハルのある町です。

 

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